はじめに
打上げアボートシステム(Launch Abort System: LAS)は、有人宇宙飛行において最も重要な安全システムの一つである。ロケットに致命的な異常が発生した場合に、乗員カプセルをロケットから引き離し、安全な距離まで退避させて乗員の生存を確保する。
LASは「使われないことが最善」のシステムであるが、いざという時に確実に機能しなければならない。その信頼性要求は極めて高く(0.999以上)、にもかかわらず通常のミッションでは使用されないため、設計・試験・認証のすべてが独特の困難を伴う。
本記事では、LASの基本概念から主要方式の比較、歴史的な使用事例、そして次世代宇宙船の実装まで体系的に解説する。
アボートの基本概念
アボートモード
有人ロケットのアボートは、飛行フェーズに応じて異なるモードが定義される。
| アボートモード | 飛行フェーズ | 脱出手段 |
|---|---|---|
| Pad Abort | 発射台上 | LAS(最大推力) |
| Mode I | 打上げ初期〜Max-Q前 | LAS |
| Mode IA | Max-Q〜LAS分離 | LAS(空力加熱条件) |
| Mode II | LAS分離後〜軌道投入前 | カプセル自身のエンジンで分離 |
| ATO | 軌道投入直前 | 低軌道への投入(Abort To Orbit) |
| AOA | 軌道投入不可 | 弾道飛行で帰還(Abort Once Around) |
Pad AbortからMode IAまでがLASの対応範囲であり、高度約50km・速度マッハ6程度までをカバーする。
アボート判断
アボート判断は以下の2系統で行われる。
自動判断 飛行コンピュータがロケットの異常を検知し、自動的にアボートを開始する。検知項目は以下の通り。 – エンジン推力の異常低下 – ロケットの姿勢レート異常(タンブリング開始) – 構造の破壊検知(加速度異常) – AFTSの破壊判断(連携)
手動判断 地上のフライトディレクターまたは宇宙飛行士自身がアボートボタンを押す。自動検知では捕捉できない漸進的な異常に対応する。
LASの方式比較
トラクター型(Tractor)
カプセルの上部に搭載された固体ロケットモーターでカプセルを「引っ張る」方式。
構造 – カプセル先端にタワー状に取り付けられた脱出塔 – 主脱出モーター(Abort Motor):大推力で数秒燃焼 – 姿勢制御モーター(ACM: Attitude Control Motor) – ジェティソンモーター(Jettison Motor):正常飛行時の脱出塔分離用
| 利点 | 課題 |
|---|---|
| 発射台上でも使用可能 | 脱出塔の質量(2〜5トン)が性能ペナルティ |
| 高い信頼性の実績 | 正常飛行時に分離が必要(追加の故障モード) |
| カプセルをプルームから離す | 空力的な抗力増加 |
採用例:Mercury(脱出塔)、Apollo(脱出塔)、Soyuz(SAS)、Orion(LAS)
プッシャー型(Pusher)
カプセル下部または側面に搭載されたエンジンでカプセルを「押す」方式。
構造 – カプセルの下部スカートまたは側面にスラスタを内蔵 – 脱出塔が不要(質量ペナルティの低減) – アボートと通常飛行のエンジンを兼用する場合がある
| 利点 | 課題 |
|---|---|
| 脱出塔の質量ペナルティなし | 排気プルームがカプセルに影響する可能性 |
| 分離機構が不要 | 発射台上の排気経路の設計が複雑 |
| 空力的にクリーン | 姿勢安定性の確保がやや困難 |
採用例:Crew Dragon(SuperDraco)
カプセル内蔵型
カプセル自体に脱出推進系を内蔵し、通常の軌道変更エンジンと兼用する方式。
採用例:Boeing Starliner(サービスモジュールのエンジンを使用)
歴史的なLAS使用事例
Soyuz T-10-1(1983年)
史上唯一、発射台上でLASが起動された有人ミッションである。
1983年9月26日、ソユーズT-10-1の打上げ準備中にロケットの推進剤バルブが故障し、発射台上で火災が発生した。点火2秒前にSAS(固体ロケットによる脱出システム)が起動され、乗員2名(ウラジーミル・チトフ、ゲンナジー・ストレカロフ)のカプセルがロケットから引き離された。
| イベント | 内容 |
|---|---|
| T-90s | 推進剤バルブ故障、火災発生 |
| T-2s | 地上からSAS起動コマンド送信 |
| T+0s | SAS固体モーター点火(加速度14〜17G) |
| T+5s | SASモーター燃焼終了 |
| T+8s | カプセル分離、パラシュート展開 |
| T+320s | カプセル着地(発射台から約4km) |
| T+330s | ロケット爆発 |
乗員は打ち身を負った程度で、翌年にはSoyuz T-12ミッションで宇宙に飛行した。この事例はLASの有効性を実証した歴史的に極めて重要な出来事である。
Soyuz MS-10(2018年)
2018年10月11日、Soyuz MS-10の打上げ中にブースター分離(第1段ストラップオンの分離)で異常が発生し、ロケットが制御を失った。高度約50km・速度マッハ1.8の時点でSASが起動し、乗員2名(アレクセイ・オフチニン、ニック・ヘイグ)が安全に帰還した。
| イベント | 内容 |
|---|---|
| T+117s | ブースター分離異常(ストラップオンが機体に衝突) |
| T+119s | 異常検知、SAS起動 |
| T+123s | カプセル分離完了 |
| T+約7分 | パラシュート着地(カザフスタン、打上げ点から約400km) |
乗員は最大6.7Gの過荷重を経験したが無事であった。分離異常のメカニズムは、ブースター側の分離ボルトの不適切な組み立てが原因で、ストラップオンが正常に離脱せずコアステージに衝突したためであった。
Apollo LASの設計
システム構成
Apollo LASは有人宇宙飛行における脱出塔方式の代表例である。
脱出塔の構成要素
| コンポーネント | 質量 | 推力 | 燃焼時間 |
|---|---|---|---|
| 脱出モーター(Abort Motor) | 2,181 kg | 689 kN | 3秒 |
| 姿勢制御モーター(Pitch Control Motor) | – | – | 0.5秒 |
| ジェティソンモーター | 227 kg | 176 kN | 1秒 |
| 脱出塔構造体 | 約1,800 kg | – | – |
| 合計 | 約4,200 kg | – | – |
動作シーケンス
Pad Abort 1. アボート開始判断 2. 脱出モーター点火(3秒間、689 kN) 3. 姿勢制御モーターでカプセルを海側に傾斜 4. 脱出塔分離 5. カプセルのパラシュート展開 6. 大西洋への着水
飛行中アボート(Mode I) 1. 異常検知またはアボートコマンド 2. カプセルとロケットの構造結合解除 3. 脱出モーター点火 4. 姿勢安定化 5. 十分な距離確保後、脱出塔ジェティソン 6. パラシュート展開・着水
正常飛行時の脱出塔分離
脱出塔は正常飛行時には高度約90km付近で分離される。この「ジェティソン」はミッション成功に不可欠なイベントであり、脱出塔分離の失敗は乗員カプセルの帰還形状を阻害する。
ジェティソンモーターは4基のリバースフローノズルを持ち、脱出塔をカプセルから引き離す方向に推力を発生する。
Crew DragonのSuperDraco
プッシャー型LASの革新
SpaceX Crew Dragonは、従来のトラクター型脱出塔を廃止し、カプセル側面に8基のSuperDracoエンジンを搭載するプッシャー型LASを採用した。
| 仕様 | 値 |
|---|---|
| エンジン数 | 8基(4ポッド×2基) |
| 推進剤 | NTO/MMH(ハイパーゴリック) |
| 1基あたり推力 | 約71 kN |
| 合計推力 | 約568 kN(8基同時) |
| 燃焼時間 | 最大約8秒 |
| スロットル可能 | Yes(100%〜20%) |
| 再始動可能 | Yes |
SuperDracoの技術的特徴
3Dプリント燃焼室 SuperDracoの燃焼室はインコネル合金の直接金属レーザー焼結(DMLS)で製造される。3Dプリントにより、従来の溶接・ロウ付けでは困難だった冷却流路の複雑な形状を実現し、製造時間とコストを削減した。
ハイパーゴリックの利点 NTO/MMHのハイパーゴリック推進剤は接触時に自然着火するため、着火装置が不要で即座にエンジンを始動できる。アボートシステムとして「いつでも即座に起動可能」という要件に最適だ。
Pad Abort Test(2015年)
2015年5月6日、SpaceXはCrew DragonのPad Abortテストをケープカナベラルで実施した。
| パラメータ | 結果 |
|---|---|
| 最大加速度 | 約6G |
| 最高高度 | 約1,244m |
| 最高速度 | 約555 km/h |
| 海面着水距離 | 約1.8km |
| テスト時間 | 約99秒(点火〜着水) |
テストは成功し、SuperDracoベースのLASの有効性が実証された。
In-Flight Abort Test(2020年)
2020年1月19日、飛行中のFalcon 9からCrew Dragonが分離するIn-Flight Abortテストが実施された。Max-Q到達後にアボートが開始され、Falcon 9はアボート後に空力荷重で解体した(計画通り)。
Orion LASの設計
NASA次世代脱出システム
NASA Orion宇宙船のLASは、伝統的なトラクター型を継承しつつ現代の技術で設計されたシステムである。
| コンポーネント | 推力 | 燃焼時間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| Abort Motor | 1,760 kN | 2.5秒 | リバースフロー型ノズル |
| Attitude Control Motor | 31 kN | 20秒 | 8ノズル、ジェル推進剤 |
| Jettison Motor | 311 kN | 2秒 | 正常飛行時の分離 |
Attitude Control Motor(ACM)は独自技術のジェル推進剤モーターで、固体モーターの単純さと液体モーターの推力制御性を兼ね備える。8方向のノズルを選択的に使用してカプセルの姿勢を3軸制御する。
Ascent Abort-2テスト(2019年)
2019年7月2日、NASAはOrion LASの飛行中アボートテスト(AA-2)を実施した。特別に設計されたブースター(Abort Test Booster)でOrionをMax-Q相当の飛行条件に到達させ、LASを起動した。
テストは成功し、トランスソニック条件(マッハ1.3付近)でのLAS動作が実証された。
Soyuz SASの特徴
60年の実績
ソユーズロケットのSAS(Emergency Rescue System: Система Аварийного Спасения)は、1960年代から継続的に改良されながら使用されている最も実績のあるLASだ。
特徴的な設計: – 脱出塔の先端に配置された固体モーター群 – カプセルを含むフェアリング上部ごと引き離す方式 – 打上げ後約114秒で脱出塔を分離(上述のSoyuz MS-10では第2段の脱出モーターが作動)
SASは2回の実使用(T-10-1とMS-10)でいずれも乗員を救出しており、その有効性は実証済みである。
将来のLAS技術
脱出塔不要の自律脱出
SpaceX Crew Dragonのアプローチを発展させ、カプセルのメインエンジン(軌道変更・離脱エンジン)を脱出推進系として兼用する方向が今後の主流になると予想される。脱出塔の廃止により質量ペナルティが大幅に低減され、打上げ能力が向上する。
インフレータブル減速技術
アボート後のカプセル減速にインフレータブル・エアロシェル(HIAD)を用いる概念も研究されている。パラシュートよりも高い高度から減速を開始でき、より広いアボート包絡線を提供する。
AI支援のアボート判断
AFTSと同様に、LASの起動判断にAI技術を導入する研究がある。複数のセンサ情報をニューラルネットワークで統合処理し、従来の閾値ベースの判断よりも早期かつ正確に異常を検知することを目指す。ただし、安全クリティカルシステムへのAI導入には厳格な認証プロセスが伴う。
まとめ
打上げアボートシステムは有人宇宙飛行の安全を根本から支える技術であり、その重要性はSoyuz T-10-1およびMS-10での乗員救出実績が雄弁に物語っている。トラクター型(Apollo、Soyuz、Orion)からプッシャー型(Crew Dragon)へのパラダイムシフトは、性能ペナルティの低減と再使用性の両立を実現した。
将来のLASはカプセル内蔵型が主流になると予想されるが、いかなる方式であっても「使われないことが最善だが、いざという時に確実に機能する」という根本的な設計哲学は変わらない。有人宇宙飛行の拡大に伴い、LASの信頼性と効率のさらなる向上は不可欠な課題であり続ける。